No.04 
至誠館の秋の行事である芸術鑑賞会に、今年はプロヴァイオリニストを招くという。小日向かなでは、そのゲスト演奏者に指名された。学業、部活と並行して練習を行うものの、八木沢雪広はなぜかいい顔をしなくて……。 コルダ×コルダ3クロスオーバー作品。
10,750

爆弾と花束 Time bombs and bouquets




「――二年七組の小日向かなでさん。至急、校長室までお越しください」
「何かしたっけ、わたし……?」
 校内放送を聞いた、小日向かなでの第一声がそれだった。
 二学期が始まって早々のトップからのお呼び出し。心当たりはもちろんない。机を寄せ合って一緒にお昼ごはんを食べたクラスの女子からは、ファイト! と励まされる。
「次、移動教室でしょ? 荷物を持っていってあげるから、直接来ればいいよ」
「うん、ありがとう……」
 優しさは嬉しいが、話が長引くことを前提にされている。かなでは後ろ髪引かれる思いで、仕方なしに席を立った。

「ようこそ。お待ちしていました、小日向さん」
 校長は、共学化の準備のために転任してきたという初老の男性だ。相対するのは転入試験の面接ぶり。筆記テストの出来は微妙で、調査書その他で補った(であろう)自覚のあるかなでは、ロマンスグレーの物腰柔らかな相手を前にしても必要以上に身構えてしまう。
「まあ、そう緊張せずに。ところで小日向さん、学校案内は読んでいるよね」
「は、はい! もちろんです」
 うながされ、合革の応接ソファに浅く腰掛けたかなでは答える。校長はずらりと並び見おろしてくる歴代の写真とは異なる、人好きのする顔で鷹揚に笑った。
「実はね、その行事案内の項にも書いてあることなんだけれど、至誠館では毎年十一月の中頃に芸術鑑賞会というものを行っていてね。ホールを借りきって古典・演劇・音楽の順に舞台を鑑賞するんだ。三年で一通りを見る形だね。
 今年は音楽の年で、プロの演奏家を招いて音楽を聴くことになっているんだ。ようやく、先方との折り合いがついてね」
「わぁ……! 楽しみです!」
 雅楽だろうか、民族音楽だろうか。民謡、ゴスペルというのも素敵だ。かなでは心からそう言った。
「よかった。企画した甲斐があったよ。
 さて、わざわざ君を呼び出したのは何故だと思う?」
 首をかしげると、校長は目尻の皺を更に深くする。
「今年はクラシック音楽の年なんだ。君のような生徒が、折角うちに転入してきてくれたんだ。プログラムに、プロと在校生の共演を盛り込むようお願いしようと思ってね。
 ――どうだろう? 小日向さん」 

   ※

 放課後。練習前のミーティングのため、吹奏楽部部員はプレハブの部室に勢揃いしていた。
「小日向先輩、お昼の呼び出しって何だったんですか?」
 聞きにくいことをずばっと口にしてしまえるのが、水島新という後輩だ。かなでは「実は」と校長からの芸術鑑賞会の打診を打ち明ける。
「えーっ! その話、受けちゃったんですか!? 十一月あたまって……あと二か月くらいしかないじゃないですか!」
 新は大袈裟にのけぞる。
「授業がはじまるぎりぎりに話を持っていって、考える時間を少なくする、断れなくする。そういう手なんだよ。く〜っ、やり方がせこい!」
 渋い表情で解説してくれるのは狩野航だ。それって横暴だ、圧迫面接だ、違法契約だ、と気の短い者を筆頭に立ち上がり抗議に向かいそうな一同を、かなでは慌てて止める。
「待ってください。ぜひお願いしますって言ったのは、わたしなんです。いきなりで、驚いたのは事実ですけど……。大丈夫、ちゃんと自分で考えて、決めたことです。
 これは、チャンスだと思って」
 かなでは、部室の棚に視線をやった。雑然とした物置の中整えられた一角に、銀のトロフィーが飾られている。ひそかなその輝きは、どんな黄金よりも勝る。
 全国優勝を目指し、吹奏楽部部員が一丸となって、ただひたすら練習に打ち込んだ夏だった。
 最良の結果を得た今だからこそ、そっとあたためていた考えを公表するいい機会だ。
 かなでは姿勢を正した。
「わたし、来年はヴァイオリンソロ部門にもエントリーします。ご迷惑をお掛けすると思うんですけど、ご協力よろしくお願いします」
 決定事項として話し、ぺこりと小さく頭を下げると、部員たちがどよめく。
 ここ数年、全国大会のヴァイオリンソロ部門は当たり年だと言われている。その立役者である如月律、東金千秋、冥加玲士という他校の三年生が卒業のため揃って抜けるが、激戦になることには変わりない。彼らに牽引される形で、全体的なレベルが押し上げられているのだ。
「次はきっと、響也が出てくる」
 ふと今は横浜にいる幼なじみの名前が出たのは、かなでの知る中で最大のライバルになるだろう存在だったからだ。
 ただの挑戦で終わらせたくはない。出場するからには、目指すのは頂点だ。
 かなでの瞳が、知らずきらめく。
「如月、響也くんですか――」
「はい」
 誰に聞かせるつもりもないひとりごとの類だった一言を、八木沢雪広に拾われる。かなでは戸惑うものの、それも一瞬の間のこと。
「勝って兜の緒を締めよってやつか。俺たちも、燃え尽きてはいられねぇな! 来年の……いや、その前に文化祭での発表を頑張らねえと」
 文化祭には、至誠館受験希望者が学校見学を兼ねて多く訪れる。吹奏楽部の三年生は、未来の後輩たちに華々しく宣伝してからだと、引退を延長してくれていた。
 次期部長の火積司郎に応える、おう! という部員たちの声は力強い。
「ただ……そうなると芸術鑑賞会、その下旬には文化祭と、小日向さんの舞台が続きますね」
 やさしく慮ってくれる八木沢に、かなでは微笑む。
「どちらも精一杯頑張ります!」
「ところで、今年のゲストって誰なのかな……?」
「あ、それは」
 伊織浩平に聞かれ、近々発表になるらしいけどいまはまだ秘密にしておいてね、とかなでは念を押して告げた。

「――ヴァイオリニストの、衛藤桐也」

    ※

 話はとんとん拍子に進み、九月某日。かなでと衛藤桐也の初対面の場は、地元仙台市内で持たれた。ビル全体が隠れ家のような、プロ御用達の音楽スタジオだ。
「衛藤です。よろしく、小日向さん」
「小日向かなでです。こちらこそ、よろしくお願いします……!」
 芸術鑑賞会の演者とその内容が、配布プリントで明らかになった時、教室の一部は騒然とした。「ドキュメント番組で観たことある」「有名人じゃないか、よく呼べたな」というやりとりもあったが、一番大きかった声は「あのイケメンの!」だ。クラシック専門以外のテレビや雑誌では、必ずそのアオリがついてくる。
 しかしかなでには、その華やかな容貌をじっくり眺める暇はなかった。あいさつもそこそこに楽器を準備して練習へと移る。印象に残ったのは、大人の男性らしい洗練されたオードトワレの香りくらいだ。
 楽譜は事前に学校宛に送られてきていた。この日のためにかなでは、一通りの暗譜と練習を済ませている。

「もう一度」
「もう一度」
「もう一度だ」

 立て続けに三度、演奏を繰り返したところで、衛藤は考え込むそぶりを見せた。
 弓を下ろしたかなでは、おそるおそるたずねる。
「……あの、何か問題があったでしょうか?」
「全国大会で君たちの、君の演奏を聴いたよ。だからこの話を引き受けた」
「いらっしゃったんですか!? ありがとうございます」
 思わぬ告白に、頬が緩む。が、しかし。
「君の学校の校長は軽く考えているみたいだけど、俺は自分が納得できない仕事は一切しない主義でね」
 場にぴりりと緊張が走った。それは、現時点でかなでが衛藤が納得するレベルの演奏をできていないということだろうか。かなでは必至に食らいついたつもりだったが、決定権はすべて衛藤の側にあるのだ。
「今、師事している先生は?」
 下手に取り繕っても仕方ない。かなでは正直に答える。
「引っ越してから、しばらく特定の先生には教わっていません。新しい教室を探そうと思っているところなんですけど」
「了解。じゃあ、しばらくこのままでいいよ。
 本番まで、俺が君の先生になる」
「……はい?」
 衛藤はスマートフォンを取り出し、スケジュールを確認し始めたようだった。この期間はツアーがあって日本にいない、この日ならOKと次々日程をあげられ、持ちかけたのは俺だから、こっちへは俺が出てくるよと言われて、ようやく衛藤が本気なのだと分かる。
「待ってください!」
 かなではあたふたと自分の手帳を取り出す。
「一緒に合わせてみて分かった。一度目より二度目、二度目より三度目が断然にいい。君は弾き込む度に上手くなるタイプだ。自覚はしているよね? OK。
 そして俺は、常にベストを尽くすタイプなんだ」
 ――誰かに教えるなんて久しぶり。
 そういって衛藤は、甘やかな笑みを浮かべたのだった。

 一度の予定の事前練習が「延長」になったことは、当日のうちにかなでの保護者に伝えられ、二つ返事で快諾された。引率の教師とかなでから報告を聞いた校長は喜び、そして吹奏楽部員たちは、驚きつつも納得するのだった。
 ――音をよく聴いて、もっと丁寧に、指が止まっている、それは個性じゃない癖って言うんだ。
 衛藤との練習は、回数が少なく短い分、内容が濃密だった。幼い頃から見て下さった先生のレッスンとは全く違う厳しさ。やはりプロの演奏はすごい、とかなではその度に感動する。ヴァイオリンの鳴り方が全然違う。それを間近で浴する機会に恵まれたのは幸運だったと思う。
 朝練、学校の授業、部活、授業の予習復習に小テスト、定期考査の勉強――至誠館は県下有数の進学校だ。学業の手は抜けない――個人練習に、特別レッスンが加わる。
 次々できる課題に落ち込んでいる暇もないほど、かなでの忙しなく充実した日々がはじまった。

   ※

 彼女が転入してきたのは夏。
 新しい土地、新しい高校での生活や人間関係。練習スタイルの異なる金管との演奏。どれをとっても今までとまったく勝手が違い、苦労や戸惑うことも多かっただろう。気疲れもあっただろう。しかし八木沢は、彼女が不平不満や弱音といったことをこぼす場面に出くわしたことはなかった。
 それどころか、ひたむきな姿にどれだけ励まされたか。指導者不在の吹奏楽部で一番長い音楽歴の持ち主として、どれだけ部を引っぱってくれたか――その成果は、夏の終わりに明らかになった。求めてやまなかった銀のトロフィーを、腕に抱くことができたのだ。
 小日向かなでという後輩は努力家だ。
 それにしたって、新学期に入ってからというもの少々度が過ぎている、と八木沢は思うのだ。
「僕に手伝えることがあれば、遠慮なく言ってくださいね」
 見かねた八木沢は、何度かそう声を掛けてきた。
 かなでの返事は、「ありがとうございます。でも、大丈夫です。大変だけどとても楽しいので」というもので、場合によってはこれが証拠とばかりに、ガッツポーズがついてきた。
 楽しいのは良いことだ……残念ながら、目の下にくまを作った状態で言うことの信用度はぐんと下がるのだけれど、本人に自覚はないらしい。
 華奢な手足を虫刺されだらけにしてやってきた時は、痛々しかった。
「家の墓、……庭で練習していたら、沢山蚊に刺されて。今日からはちゃんと、忘れずに蚊取り線香を焚きます!」
 部内一の餅肌を誇る伊織が、自家製のビワ葉のエキスをお裾分けすることで、跡は綺麗に消えたのだが。
 かなでが目を充血させていたことも、寝癖を一房はねさせて朝練にやってきたこともあった。寝癖は放課後の練習までに直っていたけれど。
 今までこんなことはなかったのに。

 ある日、かなでの顔色が驚くほど白く見えた。このままではいけないと、八木沢は心を決める。
「小日向さん……少し話をいいかな」
「はい、何でしょう?」
「しばらく部を休んだらどうだろう。文化祭には、僕と狩野もいるわけだし」
 えっ!? と驚きの声があがる。
「……練習、足りていませんか? わたし、足を引っ張っていますか?」
「そうではないよ。小日向さんはとてもよく頑張っている。ただ、最近随分と無理をしているようだから」
 八木沢は、かなでがかつて天才少女としてうたわれていたらしいということを思い出していた。 それに、もしかしたら今後は部活どころではなくなるかもしれない。
 舞台の中心で、スポットライトと喝采を浴びるのが似合うひと。
 かなでは、今教えを受けているヴァイオリニストに随分気に入られているようだった。業界には変わったやつがいるからと、火積がかなでには内緒で父(火積の父は有名なロックミュージシャンだ)のマネージャーにたずねたところ、さいわいにも衛藤桐也は「実力主義」で「ストイックと評判」だという。かりそめの師弟関係は、一時的なもので終わらない可能性がある。
「……わたし、元気ですよ?」
 どうしてそんなことを、と言うかなでと八木沢の目と目がぶつかる。
「文化祭は部長と、みんなで演奏できる最後の機会かもしれないのに、不参加だなんて」
「負担を軽くしたいんです。あなたには、あなた自身とその目標を大切にしてほしい」
 青白かったかなでの頬がばら色に燃える。
 見つめ合いは、「――しています、十分」とかなでがふいと視線を外すまで続いた。
「わたしが何を大切にするかは、わたし自身が決めます!
 ……すみません、今日はお先に失礼しますね」
「小日向さん」
 呼び止める声は苦く、弱いものになった。
 かなでの気持ちをくじき、傷つけた。反発があること、すぐに納得してもらえる事柄でないことは八木沢に分かっていた。時と言葉と場所を選ぶべきだったという後悔より、もっと早くに言い出しておくのだったという反省の方が勝る。彼女に多くを背負わせすぎるのは酷だ。誰かが――自分が――とめなければ。先輩として最良の道を示さなければ。
 かなでは弓とヴァイオリンをケースに片付ける。
「お疲れさま」
 部室を出ていくそのの背に声を掛けたのは、八木沢に名前を出されて驚いた以降、沈黙を保っていた狩野だった。助け船のようなタイミングに、お疲れ、お疲れ様です、また来週、と一部始終を見ていた他の部員が次々に続く。
 かなでは扉を閉める際に少し振り返り、小さく一礼すると立ち去った。
 男子ばかりが残された部室には、気まずい空気が漂う――かと思えば。

「これは、チリツモヤマっちゃってるんでしょうね〜」
「なんだ水嶋、その四股名みてぇなのは」
「《塵も積もれば山となる》。こういうのは、一度ぱん! と割っちゃった方がいいんですよ。ピニャータみたいに!」
「例のくす玉か。……なるほどな」
 一連のやりとりがたいしたことではないとでもいうような、あっけらかんとした雰囲気だ。仲間のひとりであるかなでのことが、心配ではないのだろうか。
 狩野がぽんと八木沢の肩を叩く。
「おれたちには、小日向さんの行動をとめる権利はないよ。彼女の保護者でも、医者でもないんだから。万一あったとしても、小日向さんが言った通り、どうするのかを決めるのは小日向さん自身だ」
 八木沢が思っていた以上に、突き放した意見だった。ただその口振りには、「しょうがない」という諦めではなく、見守るような響きがある。
「――なんて、傍観者は語るってな。
 というか、何を見てそう思ったかは知らないけどさ、色々ややこしく考えすぎてないか、八木沢」
「もしかして、狩野たちは何か――僕の知らないことを知っているのかい?」
 狩野は火積や伊織、新と短く目配せを交わすと言った。
「これ以上は」
「ノーヒントです!」

 八木沢は、藁をも掴む気持ちでかなでの一番身近な人物に話を持ちかけることにした。断った上で部室を一足早く出て、図書室に向かう。
 参考図書が置かれた奥まった一角。四人掛けのテーブルという良席にも関わらず、不思議と他に座る者はいない。
 部を引退した彼は、図書室で受験勉強に専念しているという噂は本当だったようだ。
「小日向さんの体調に、気を付けてあげてほしいんだ」
「なぜそれを私に言う。……彼女が何か言ったのか」
 同居の件は黙っているようにと、あれだけ念を押したのに。そう長嶺雅紀の眉間の皺が物語っている。八木沢は「違うよ」と首を横に振った。
「小日向さんは何も。僕が知っているということも知らないんじゃないかな。入部届で彼女の住所を見たから……君と僕の学区は同じだし」
 年賀状をやりとりする仲でもあったから、住所はもちろん知っている。
「……最初からということか」
 わざとらしく嘆息する。隠す必要がなくなったと分かった長嶺の切り替えは早く、あっさりと遠縁の母子が別棟で生活していることを認めた。
「彼女はとても努力家で、その分とても無理をしているから」
「お前は、相変わらず過保護だな。彼女もこどもではない。
 それに、私が何か言ったところで、素直に聞き入れるとも思えないが」
「僕では駄目だった。小日向さんを怒らせてしまったよ。
 狩野にも、君と同じ風なことを言われてね」
 そのときのやり取りを再現すると、長嶺はほうと珍しく口元を緩めた。中学生の頃を思い起こさせる面持ちだ。
「傍観者とは、なかなか狩野たちも皮肉が効いている」
「皮肉?」
「暴走する側には自覚がまったくないから困る」
「……僕か」
「面白い話を聞かせてもらった、せめてもの礼だ。彼女が夕食の後すぐ横になったり、いつぞやのように悪い虫がついたり、湯船で寝入ったりしないよう、私が注意して見ていよう」
「長嶺」
「冗談だ。
 今自分がどんな気持ちで、どんな表情をしたかを含めて、精々悩むがいい、八木沢」


 何度も指先を迷わせた末、「もう一度話をしましょう」と送ったメールに、かなでから返事がくることはついになかった。

 休みを挟んで月曜の朝。諸々の問いの答えを八木沢はまだ出せていなかった。かなでに休部をすすめたのも熟考の上で、決してその場の思いつきではなかったのだ。一体どういう顔をして会えばよいのか――
「おはようございます、八木沢先輩!」
「……おはようございます、小日向さん」
 校門のかげから不意うちのように現れたかなでは、拍子抜けするほど、いままで通りのかなでだった。梳かしつけた髪には一筋の乱れもなく、頬はほんのり上気して、瞳は八木沢をとらえまぶしく輝いている。
 なんとか挨拶を返した八木沢の、更に先手をかなでは取った。
「先週はすみませんでした。かっとして、途中で帰ってしまって。
 あれからわたし、よく考えてみたんです。心配していただけたこと、すごく嬉しいです。ありがとうございます。その感謝の気持ちを、まずお伝えするべきでした」
 八木沢が求めていたのは、謝罪でも感謝の言葉でもなかった。
「八木沢先輩のお気持ちは分かりました。でもごめんなさい。わたし、文化祭にはどうしても吹奏楽部のみんなと出たいんです。かといって、他のなにかを辞めたり諦めたりもできない。
 だから、無理のないように今までの練習内容を考え直しました。先輩に納得してもらえるように。衛藤さんに協力していただいて」
「お話ししたんですか」
「はい、ちょうど練習でお会いしたので」
 八木沢が急に口を挟むと、かなではきょとんとした。その次の瞬間には、元通り表情を引き締めている。
 八木沢は気付いた。かなではこの場に、自分を説得するためにやってきているのだ。かなでの心は決まっている。八木沢が思い悩んでいる事柄など、彼女にとってとうに過去のものなのだ。八木沢が週末に留め置かれたまま、彼女はどんどん前に進んでいる。
 この先、たとえどんなことがあったとしても、かなでが意志を曲げることはないだろう。
 衛藤桐也というひとが――信頼できるヴァイオリンのプロが――関わってくるなら、今後無理や無茶をすることもないだろう。先輩として意見できるのはここまで。問題は解消したといっていい。
 安心しました、と八木沢が告げることで、ふたりの和解は成立した。
 八木沢の胸のうちに満ちたのは、安堵とはまったく逆のベクトルの感情であったけれど。


 ――そうして、芸術鑑賞会当日がやってくる。

    ※
                          
 生徒の後方座席は、OBと保護者のために――至誠館にOGはまだいない――開放されていた。公平性を期すため事前に希望者に販売された有料席のチケット倍率は、過去最高であったらしい。平日の昼間だというのに、会場は満席だ。
 そうした中はじまった芸術鑑賞会――衛藤桐也スペシャル・コンサートは、曲や作曲者の解説を一切挟むことなく、怒涛の勢いで進行した。
 戸惑う空気の中、これが衛藤桐也のヴァイオリンだという音楽が押し寄せる。クラシックにもイケメンにも興味がなかった生徒が、弦の調べにみるみるうちに引き込まれていく。

 時間は、あっという間に過ぎた。
 一度袖に引っ込んだ衛藤は、少女を伴って再度舞台に登場した。白いドレス姿の彼女に合わせて、ジャケットを羽織ってのエスコートだ。
 校内のどこかで一度は見掛けたことのある少女の、美しいドレス姿に会場がわっとわく。口笛を鳴らす者もいる。
「小日向せんぱーい!」
「メッチャ綺麗です……!」
 中でも管楽器をたしなむ後輩の声は、よく通った。

「最後に、スペシャルステージといたしまして、在校生とのコラボレーションを行います。
 ヴァイオリンを演奏するのは、吹奏楽部二年、小日向かなでさん」
 女子生徒? 吹奏楽部? とその部分でざわめくのは、かなでに馴染みのないOB達だろう。アナウンスを聞きながら、校長先生はちゃんと約束を守ってくれたんだ、とかなではほっとする。
 ――わたしは、吹奏楽部の部員としてステージに立ちます。
 ――それでも、いいですか。
 今日の出演のために、かなでが出した唯一の条件だ。
 顧問はいるが指導者はいない。部室は物置小屋で、伝統ある看板は焼失するところを救い上げた。そういう部の代表としてお披露目されることを望んだかなでに、校長は「勿論」と真摯に頷いてくれたのだった。
 それが果たされた今、あとは、全身全霊で曲を奏でるだけ。
 お辞儀をひとつ。舞台の中央、互いの弓がふれあわない程度の距離をとった衛藤とかなではヴァイオリンを構える。

 ――《威風堂々第一番》。
 今回の衛藤のプログラムはすべて、自由に弾いているように見せて「高校生が楽しめるように」という主催者側のリクエストに応えての選曲なのだと、かなでは知っている。耳馴染みのある曲を弾く一方で、尖った曲を入れてくるのもさすがだ。
 躍動感ある行進曲。
 かなでは、晴れ渡った空の下、校舎の屋上から下がる垂幕を思い出す。
 朱色で書かれた祝の字が躍る。
 勝者も、頂点に手が届かなかった者も、すべての健闘を讃えよう――様々な方面で活躍する部や生徒が在る、至誠館高校にふさわしいセレクトといえた。

 そして、演奏は次へと移る。
 予定にはなかった一曲を奏でることになったきっかけは、かなでがぷいと部室を出た日の翌日にあった――音楽スタジオでかなでの演奏を少し聴いた衛藤が「何かあった?」と問うてきたのだ。
「随分感情的な演奏だけど。
 ああ、先に言っておくとストレートな表現が悪いってわけじゃないよ。俺にはプロとして合わせる技量があるし」
「……さすがプロの耳ですね」
「俺のはせいぜい《銅の耳》がいいとこだよ」
 一時的なものとはいえ、衛藤は師匠だ。そして弟子にとって師匠のいうことは絶対だった。
 かなでは部室であったことをぽつぽつと打ち明けはじめた。一夜経って落ち着いたと思っていたのに、再び感情が高ぶって涙ぐんでしまうのがくやしい。衛藤は見ないふりをしてくれている。
 語るうちに、かなでの気持ちは徐々に落ち着いていく。そうした頃、口からぽろりとこぼれたのは。
「わたしはただ、部長にほめてほしかっただけなのに。そのために頑張ってきたのに。
 なにを間違えたんでしょう?」
 あれ? なにをこどものようなことをいっているんだろう――そう思う一方でかなでは気付いた。
 これは、本音だ。知らなかった。そうだったんだ、わたし。
 ひいていたはずの涙が再び満ちる。頑張りは確かに伝わっていたけれど、受け入れてはもらえなかった。それがなによりかなしい。
「部長って金のトランペットの?」
「……はい」
 妙な質問が投げ掛けられる。そう、衛藤には、全国大会のステージを見られているのだ。
 衛藤は考え込んでいる。やがてかなでの師匠は、予想外のことを言い出した。
「今の小日向にぴったりの曲がある。さいわい楽譜もある。きっといい演奏になるはずだ。練習も終盤だけれど追加でもう一曲。
 どう? 弾く? 弾かない?」
 たとえ報われなくても努力を続ける? という意味の問いだと、こ時のかなでは受け取った。だから選んだ。
「弾きます」

 一転して優美な曲想は、先程と同じ、イギリスの作曲家エルガーの作品だ。
 ――《愛のあいさつ》。

 奏ではじめたかなでは、あっと小さく息を飲んだ。
 衛藤の音が遠くに聴こえる。ぽんと放り出されたような、感覚。不思議と不安は感じない。舞台の上ではなく、開けたところにかなではいた。
 空は水晶を溶かし込んだかのように青く澄んでいた。緑に萌える草原に、太陽が金の光を投げ掛ける。吹き抜ける風は、穏やかにかなでの髪を揺らして遊び、そして音を運んでいく。
 美しい世界に、幾度となく練習してきた曲がここへきてまったく新しい鳴り方をみせた。
 ヴァイオリンが囁く。耳に響く。
 風が強くなる。
 鮮やかな花びらの嵐を薄目にしてやり過ごしている間に、そこにかなで以外の人が現れた。
 まっすぐ伸びた白いシャツの背中。グリーンシトラスのそれではなく、かなでの大好きな、ほのかな上白糖のかおりがする。
 ――!
 思わずその名前を呼ぶと、ゆっくりと彼は振り向き不思議そうにまたたきをした。
 ここはどこだろう、今誰に呼ばれたのだろう、という表情だ。だが、かなでの姿をそこに認めて、ああと合点がいったようだった。
 ふたりは――かなでと八木沢は、見つめあい、はっきりと微笑んだ。


 演奏を終えたかなでは、「Bravo!」と称賛する衛藤とハグを交わした――らしかった。その記憶はない。気が付けば、舞台の上は花束贈呈へと移り変わっていた。

「ありがとうございました……!」
 三年生の文化部長が、興奮ぎみに花束を差し出す。衛藤が受け取るタイミングで、大きな拍手が更に大きくなる。
「こちらこそ、楽しんでもらえたようでよかった」
 握手のために手を伸ばされて、あわわと慌てて応える文化部長を横目に、副部長は伴奏者への手渡しを済ませる。
 かなでの前に、花束の贈呈役として立ったのは。
「小日向さん」
「八木沢先輩」
 どうして、と問うまでもない。八木沢が生徒会関係の仕事を広く手伝っているのは周知の事実だ。声を掛けられたのか、自ら手を挙げてくれたのか。
 ふたりは舞台の上で向かい合った。
「……素晴らしい演奏でした。
 演奏の最中、僕は走り出したくて仕方なかった。でも、最後まで聴いていたくて席を立つことはできなかった。
 矛盾していますよね。でも、それでようやく分かったんです」
 八木沢は、自らの手の中の花を一瞥した。
「この場ではこちらをお渡しします。ですが、この花束は、学校側が用意したものなので――あらためて。
 この後贈ります、僕の気持ちを。
 どうか、受け取ってくださいますか」
「……はい!」
 鳴りやまない拍手の中、ふたりはゆっくりと距離を縮めた。

fin

「これが、相思相愛……ってやつか」
「一目瞭然だったのにな」
「まあ、岡目八目っていう言葉があるくらいですから」
「Cada macaco em seu galho. やっぱり邪魔をしなくて大正解でしたね!」

本人たちだけが、まったく自分の気持ちに気付いていないっていう。リドルストーリー(のようなもの)を書こうとして大変苦戦しました(※オチはちゃんとハッピーエンドのつもりなのでご安心ください!)。

2019.02.22
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