No.77 
水嶋新と小日向かなでが交際中!? 八木沢雪広の誤解を解くべく、吹奏楽部の後輩たちは誤解の原因が何かを探すことに――!
13,160

雪降って地固まる




 後輩の声が聞こえたのだ。
 人柄そのものの明るい声は、吹奏楽を嗜む者の肺活量をもってしてよく通る。ほんの数日ぶりだというのに、懐かしい気さえする。
 八木沢雪広は小さく微笑むと、薄暗い踊り場からほんのり白い窓辺に寄った。
 三階から見下ろすと予想通り、水嶋新がグラウンドの隅に立っていた。五〇メートル走のラインの上、両の手を空へと大きく挙げている。はかったように灰色の雲の切れ間から一筋の光がこぼれ、彼を照らし出す。
「小日向先輩――! 好きです!」
 あっと思う間もなかった。
 八木沢の斜め前、本棟の窓から小日向かなでの顔がのぞいた。なめらかな額と花の髪飾り、小さな耳が見える側。 
 その横顔は、歓喜に輝いている。
「ありがとう、新くん。そこで待っていて!  今、下りていくから!」
「はい!」
 新の返事に応えるようにすぐさま首はひっこめられた。元通り窓を閉め、施錠した上でぱたぱたと駆け出すのだろう。きっと、脇目もふらずまっすぐに。
 昇降口を目指すなら、八木沢のいるこの別棟は遠回りになる。かなでがやってくる可能性は低い。それでも八木沢は、身を隠すように息をひそめてかなでが立ち去るのをただ待った。
 このあと、二人は顔を合わせるのだろう。
 ――八木沢はくるりと踵を返した。


   ❄


【木曜日】

「……失礼しましたー」
 教室を出た狩野航は、扉を閉めるなりはーっと長く息をはいた。とぼとぼと数歩歩き出し、ええい、これではいけない! と顔を上げ胸を張る。しかし、次第に背はしょんぼりと丸まる。
 いっそ、今日一日とことんへこむ方がいいのかもしれない。というか、平常心以上の心持ちで出てこれる奴はそういないはずだ! と気を取り直したところで、さっそくその例外である代表選手を見つけてしまった。
 八木沢だ。廊下に持ち出された待ち時間を過ごすための椅子の一つに、姿勢よく座っている。
 部活という共通点がなくなった今、合同授業も重ならず、二つ以上クラスの離れた八木沢と狩野が校内で遭遇する機会はほぼない。おお、久しぶり! と上昇した気分のまま声を掛けようとした狩野は、その表情を見て思いとどまった。
 的確なたとえでないのは重々承知で、狩野は西施の顰という言葉を思い浮かべる。感情をストレートに面に出した八木沢は、目元や頬の優しげな輪郭が引き締まり、狩野でさえ目を瞠るくらい男前に見えるときがあるのだ。もちろん、迂闊に真似てもむっつり不機嫌そうな男が一人出来あがるだけ、火傷は必至だと理解している。
 何かを堪えるような佇まいは絵になるが、友人として放っておけるものか。

「なーにたそがれてるんだ」
 隣に並ぶと、「狩野」と驚いた表情で見上げてくる。
「なんて、溜息をつきたくなる気持ちもわかるぞ」
 狩野は、八木沢の持つ薄手の用紙を一瞥した。
 同じものが狩野の鞄の中にもある。先日帰ってきたばかりの、受験前最後の模試の結果だ。それを元に、担任との個人面談が持たれている最中なのである。
「……みなまで言うな八木沢。誰だって調子の悪い時はあるって。お前の場合、偶々、きっと一時的なものだからさ、あんまり気にすんなよ、な?」
 かつて、美大と女子大以外ならどこでも入れるぞ、と吹奏楽部の元顧問が得意げに吹聴して回ったこともあって、八木沢の優秀さは多くの生徒が知るところだった。デリカシーを欠いた物言いに、何人かはひっそりと、あるいはあからさまに苦笑したものだったが。
「そういうのじゃないんだ。本当に……」
 八木沢は考えあぐねた末、それを振り切るように手の中の紙を広げて見せてくれた。苦肉の策であったことを表情が物語っている。
 狩野は目を見開いた。
 オールA判定。それも、左側に並ぶのは誰もが知っているような有名大学の学部名だ。
 なんだ、心配することなかったじゃないか、と正直狩野は拍子ぬけした。心なしかコンピュータからのアドバイスコメントも《油断しないように》《当日まで体調に気をつけて》と優しい気がする。俺にはこんなこと、一言も言わなかったじゃないか……!
 ――ご利益に少しでもあやかろうと、網膜に焼き付けるような勢いで凝視する狩野であった。

「じゃあ、何に対して暗い顔してたんだよ、受験生」
 八木沢は重い口を開く。
「自分でも驚いているんだ」
「おう」
「後輩達を祝福しなくてはと思うんだけれど、こんな喜ばしいニュースをどうして僕に教えてくれないんだろうって。そういう気持ちがまず先に立ったんだ。
 ――水嶋も随分、他人行儀だなんて非難めいたことを考えてしまって」
「おう……?」
「狩野は知っていたかい。水嶋と小日向さんがつき合っているって」
「えっ! 新が!?」
 狩野はつい大声を出す。まさか・・・。まさしく青天の霹靂だった。はっと口元を押さえてもあとの祭りだ。一瞬にして、八木沢は申し訳なさそうな顔になった。
「……ごめん。僕が勝手に知らせていい事柄ではなかった。知らなかったのなら忘れてくれるかい」
「構わないけど。……あのさ、」
 八木沢、と狩野が呼びかけようとしたところで、
「――ああ、僕の番だ。それじゃあ」
 タイミングがいいのか悪いのか、俯いて出てきた同級生と交代で、八木沢は教室に入ってしまった。
 この話はおしまいとばかりに、きっぱりと。
 面談中のしんと静かなリノリウムの廊下に、狩野はひとり取り残される。
「えええ……」

《緊急事態発生! 部室に全員集合!!》
 スマートフォンを取り出して曜日を確認する。誕生日を祝うのに、八木沢を除外したグループを作成しておいてよかったーと思いながら、狩野はメッセージアプリに急いでそう打ち込んだ。

   *

 吹奏楽部の部室は、ひと夏を過ごしたプレハブから校舎の中へと復帰を果たしていた。部の看板と銀のトロフィーを抱えての凱旋だ。与えられたのは以前よりも随分狭い、科目準備室という名の物置部屋である。
 しかし、これからの仙台の気温のことを考えて部員たちは喜んでいた。コンクリートの壁があるというだけで大分違う。
 ちょうど個人練習の日だったのがさいわいした。校内に三々五々散っていた、グループ名《やぎたん》――八木沢の誕生日を祝う会の略――の男子部員たちは、連絡が入ったものの数分後には部室に集まっていた。

「こんにちは、狩野先輩」
「緊急事態だなんて、何かあったんですか?」
 火積司郎や伊織浩平が怪訝そうに詰め寄る中、狩野はじっと新を見た。吹奏楽部一高い背に人好きのする顔を乗せた後輩は、「オレ?」と察しのよさを発揮する。
「最初にひとつ、聞きたいことがあるんだ――新。お前、つき合っている女子はいるのか?」
 狩野の真剣な表情にそぐわない問いに、新はつられて真面目な顔で答える。
「いませんよー。いたら今頃、めちゃくちゃ自慢してるし、めちゃくちゃノロケてます!」
「だよなー! お前はそういう男だって信じてたぜ!」
「はい!」
 二人は熱く握手を交わした。信頼関係は成り立っているけどイイハナシカナー、と伊織は狩野と新のやり取りを見つめた。緊急事態と召集が掛かったわりに、全然大した話ではなさそうと胸をなで下ろしつつ。
「それがどうかしたんですか? はっ!? この質問、話の流れ! もしかして、オレにひそかに恋するかわいい女子がどこかにいて探りを!?」
「実は八木沢がな」
「あ、スルーされた」
「八木沢部……先輩が?」
 飛び出した名前に、火積が前のめりになる。
「さっき会ったんだけど、妙に元気がなくてさ。なんとか理由を聞き出したら、新がつき合ってるって言うんだよ。
 ――その、小日向さんと」
「…………」
「…………」
「…………」

 ――一大事だった。

「Vixe Maria!」
 新は先輩たちに、これまでの付き合いで一番の動揺を見せた。意味は分からないがニュアンス的に「なんで!?」「どうして!?」あたりだろうか。取り乱しように、狩野は逆に安堵する。
「何故教えてくれないんだろうって言ってたけど、その様子ならやっぱり誤解だよな。絶対誤解だと思った。うん、誤解ならいいんだ誤解なら! ――誤解、だよな?」
 新はショックから脱しきれないような面持ちで、何度も頷く。
「あー、よかったー!
 俺たち三年は、ほら、こういう微妙な時期だろ。八木沢の誤解を解いてやってほしいんだよ。本当、珍しくへこんでる感じだったから。できれば、早急に」
「それは、もちろん」
 後輩が請け負うと、狩野は満足気に笑った。
「よろしく頼むな。は〜、ようやく肩の荷が下りたって気がするよ。
 という訳で、悪いけどおれは帰るぞ。帰って――ぎりぎりまで悪あがきをする」
 三年生が大事な面談中であることは、在校生の皆が知っている。後ろには正念場である受験本番が控えている。そう言われて誰が引き止められるだろう。
「お疲れ様です」
「勉強、頑張ってください」
「おう!」
 手を振り立ち去る狩野の背中を、後輩たちは「無事に志望校に合格しますように」と強い念を込めて見送ったのだった。

   *

「あのー、ちょっといいですか」
 三人になった部室で小さく挙手をする新に、いぶかし気な視線が集まる。
「どうしたの、新くん。八木沢先輩に連絡するんじゃないの?」
「狩野先輩の手前、ああは言ったんですがー」
 奥歯に物が詰まったような物言いだった。
「まさか、お前」
「オレは無実ですって、火積先輩! いや、無実って言うのはなんか変だけれど。
 八木沢先輩に連絡したいのは、山々なんですが……」
「何を躊躇うことがある。ありのままを言やあいいだろ」
「……それが、心当たりがないんです」
 新は沈痛な面持ちで告げた。
「まったく、かけらも」
「は?」
「オレが、実は小日向先輩とつき合ってません! って言っても、八木沢先輩には受験生に気を遣った嘘をついている、と思われるんじゃないでしょうか。ほら、『今は微妙な時期』、なんですよね。
 信じてはもらえるかもしれない。でも、納得はしないと思うんです。
 八木沢先輩のことだから「わかったよ、水嶋」って言いながら、実は誤解したままとか全然ありそう」
 誤解の原因が不明な上、そもそも明確な証拠が存在しない事柄だ。悪魔の証明に近い、と新は頭を抱えているのだった。
「言葉をつくして説明をすればいいのかもしれません。案外、あっさり誤解が解けるかも。
 ただ、相手はあの八木沢先輩です。何の対策も立てないまま向かったら、墓穴を盛大に掘る自信大ありですよオレ」
 火積と伊織は顔を見合わせた。後輩の表情が伝染している。――否定はできなかった。
「問題が問題だけに当たって砕ける! って訳にはいきませんから。
 三人寄ればなんとやら! 誤解の原因を探すため、協力、お願いします!」

 部屋の隅に立て掛けてあるパイプ椅子を、引き出してきて各々着席する。
 口火を切ったのは伊織だ。
「……そもそも、どういうことをすれば、つき合ってるってことになるんだろうね」
「そりゃ……好き合っている奴らがお互いに気持ちを伝えて、引っ付いて、二人っきりで帰ったり、休みの日にはデ、デートしたりとかだな……笑う立場か水嶋!」
「すみません、つい」
「まあ、暗い顔をしてるよりはいいけどよ」
「好き合ってる云々っていう部分は抜きにしても」
 伊織は遠慮がちに付け加える。
「小日向さんと二人っきりで帰るとか、それって、ボクも含めてここにいる全員がしたことある・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・こと、だよね?」
 伊織の的を得た指摘に、火積と新はほぼ同時に頷いた。
 グループで、時には一対一で。部活終わりに一緒に下校するのは、吹奏楽部の日常の風景だ。これは、日が暮れるのが早くなってからは、学校からも推奨されている事柄でもある。家の前までは無理だとしても、事情が許す限り近所までかなでを送るようにしている男子部員一同だった。
「二人で下校しているくらいだったら、八木沢先輩もつき合ってるとは言わないと思うんだ」
 むしろ、夜道を一人で帰しているとなると、どうして送ってあげないんだい、よろしく頼むね、とやんわり注意だかお願いだか飛んでくると思われる。
 伊織は言葉を選びながら続ける。
「あの、引っ付くとはちょっと、ううん、全然違うと思うんだけど……ボク、小日向さんと手を繋いだことがあって」
「伊織……」
「あのね、こう、言葉だけ取り出すと大事みたいだけど、そうじゃないんだ!
 部活中にね、外周を走っていたときの話なんだけれど……」

 伊織は、暑い夏を思い出していた。
 伊織はその体格から、体力作りのためのランニングの際には他よりも遅れがちになる。汗をかいて、息も絶え絶え、足が痛み、心臓が壊れるほどに鼓動を打つ。
 もう無理……、と歩きに切り替えようとふっと力を抜いたそのタイミングで、かなでが気付いたのだった。
「大丈夫? 伊織くん。どこか痛めた?」
「う、ううん……」
「そう? じゃあ」
 そう言って、かなでの手がさし出されたのだ。

「遠慮したんだけど、小日向さんにラストスパート一緒に頑張ろうって言われて。
 そのまま二人で、坂を登ったんだ。とても、恥ずかしかった。
 ……うん、本当はもっと頑張れたんだ。限界だ、無理だって、ボクがそう勝手に思い込んで諦めていただけで。自分で自分に甘えていたんだ。小日向さんにはお見通しだったんだろうね」
 申し訳なくって、おかげで次からはコースを全部、完走できるようになったよ――伊織は笑う。
「その場面を想像してみて。疲れたボクと小日向さん・・・・・・・・だよ。八木沢先輩から見たら、ランニング中に伊織が牽引されているんだな、としか写らなかったんじゃないかな」

「実は俺も……小日向と休みに出掛けたことがあって」
 そう告白をはじめたのは火積だ。
「個人練習用のペットの楽譜がほしくてな。でも俺は、曲にはそう詳しくねぇし、楽譜も読むのが遅い。手に取った楽譜がどんな曲か、選ぶのに苦労しそうだとこぼしたら、休みつぶしてわざわざついて来てくれることになった」
 楽器店の片隅。かなでは、引きだした楽譜のメロディを小声で歌って教えてくれたのだ、と火積は言う。「練習、大切だものね」と嫌な顔をせず、何曲分も。
「おかげで、いい物が買えた。その後、昼も回っていたことだし、長時間拘束して悪かったとファミレスに誘ったんだが」
「おごっちゃったんですか」
「いや、金を出すと小日向は気にするだろ。家族にもらったクーポンを持ってたからそいつで払った。
 見ようによってはその……デートってやつにみえたかもしれねえ。けどよ、分かるだろ」
「うん、うん、わかるよ火積くん!」
「他にもだな」
「まだあるとか!
 ……ちなみにオレ、校外で先輩と二人っきりになった想い出って、特にないんですけど。夏の猛練習のときとかは別として」
 頭をかく火積は己の行いを猛省しているらしい。まあ、とフォローのつもりで新は口を挟む。
「ひとつ屋根の下で暮らしている人も、いたりしますからね」

 かなでが長嶺雅紀の家に居候していることを部員たちが知ったのは、文化部の三年生の多くが引退するその日だった。
「今まで黙っていてすみません」
「親戚!?」
「似てない!」
 皆が驚く中、八木沢だけが一人平然としていた。そう指摘されると、
「部長として小日向さんの入部届の住所を受け取ったからね。住所が書かれていたし、長嶺と僕は同じ学区だから」
 住所を見れば、おおよその事情が察せたということだった。
「最初から知ってたのかよ八木沢……」
 その長嶺は、早々にブラスバンド部を次期部長へと引き渡し、週一のペースでかなでを迎えに現れる。図書室での自主学習の帰りであるらしい。
「彼女のことは、母からもよく言い含められているのでね」
 部活が終わり、ちょっとした雑談を交わしている最中でもお構いなしにかなでを引っ立てていく。
「すみません、お先に帰ります……! 待ってください、長嶺さん……!」
 余計なことを一切語ろうとしない長嶺の背中は、(お父さんだ)(昭和の親父だ)(ドラマでも最近観ない感じの)(わー、将来娘がうまれたら彼氏が大変なやつー)という感想を部員の胸に抱かせた。
 最近では、ホルンの演奏について質問のある伊織が同行を申し出ることもあり――今のところ断られたことはない。

 数え上げるように指を立てる新は、さらにもう一本を追加した。
「あと、星奏の響也さんとか。お兄さんの律さんは、なんかちょっと違う感じ……? 小日向先輩とお互いに呼び捨てで、最初聞いた時はびっくりしましたよ」
 かなでは基本的に男子のことは「先輩」か「くん」付けで呼ぶ。横浜で顔を合わせた如月響也とフランクなやり取りをしている様子は、部内の一部で物議を醸したものだ。

 親戚と幼なじみ。かなでに近しい人物としてあげられた例を聞いて、伊織はやっぱりという思いを強くする。
「新くん、あのね。八木沢先輩は、よっぽどのことがないとつき合っているっていう結論に至らないと思うんだ。
 二人が一緒にいるところを見ても、《小日向さんと新くん》がいる、という認識しかしないと思うんだよ」
「お前がスキンシップが激しい奴だってのは、百も承知だろうしな」
「だから、よっぽどのことがあったんだと思う。たとえば、ええっと、一線を超える的な? そういう誤解なんじゃないかって」
「一線……」
「普段から気軽に抱きついたりしてるだろ。だからその、キ……キ……言わせんな!」
「ハグ以上の一線……」
 うーん、と深く考え込んだ新は、やがてぱっとひらめいた。 
「もしかして、あれが参考になるかも!」

 棚をあさり取り出したのは、レザー調の紙が表紙の一冊の薄い本だ。文化祭で科研部が発行していた部誌である。
 題して『漫画をカガクする』。
「曲がり角でぶつかった男女のうち、女子だけが尻もちをつくには」「席替え時ベストスポット(窓際後ろの席)で彼と隣の席になる確率」「壁ドン&バックハグベスト身長差」などなど。テーマについて、科学的に検証(と称)し、あとはひたすら計算をするという小冊子だった。内容が少女漫画寄りなのは、その読者層をターゲットに絞った結果だった。肝心の売れ行きの方は、悲しいかな、科研部部員に半ば押し付けられるように手渡されたという事実が物語っていたのだが。役に立つ日がまさか来ようとは。
 新は目次に目を走らせた。
「睫毛をとっている様子が××に見えてしまう位置と角度〜目撃者はカノジョ編・カレシ編〜」――これだ!!
 喜びは声に出ていたかもしれない。鞄からルーズリーフと筆記用具を取り出すと、新は計算をはじめる。式に自身の身長を当てはめて――
「大丈夫、計算は合ってるよ!」
「その場合、代入するのはこっちじゃねえか?」
 …………
「おっかしいなー」
 結局、このチャレンジは徒労に終わる。

「小日向先輩とオレ、身長差がありすぎるから!」
 わっと新は机に突っ伏した。
「こうなったら、小日向先輩との想い出を出会いから全部思い出すしかないのか……!」
決定的な何か・・・・・・があった訳じゃないのかも知れねえな。それまで積り積もってきたもんが、八木沢先輩の誤解を招いちまった、ってことはないのか」
「脳内検索の範囲をいきなり広げないでくださいよ……」
 新は珍しく泣き言をもらした。そうしながらも、取りこぼしのないように、かなでと交した会話のひとつひとつを思い出し、心当たりを探し続けている。

 かなでは、入部した直後から音楽経験を活かして、八木沢と二人三脚で部を引っ張ってくれた。猛練習の合間に、自身の個人練習の時間も確保していたのだというから恐れ入る。
 新にとってのかなでは、小柄で頑張り屋の先輩だった。好奇心にきらきらする瞳。細やかな心配りのできる、ほがらかな人柄は春の日のよう。そんな彼女の笑顔が、一番輝くのは――

「二人がさっさとつき合ってたら、こんな目には――あ、今のなし。口が滑りました!」
「大丈夫だよ、新くん」慌てる後輩を、伊織は穏やかに慰める。「ボク達も分かってる。多分、狩野先輩も」
「直接聞いたわけじゃねえけどな」と火積。「様子見てたら、まあ、そういうことなんだろうと」
「気付いていないのは、本人達だけだよね」
「八木沢先輩が、まさかまだ自分の気持ちを自覚していないとは思ってもみなかったが」
 部室でコイバナ、とかいうやつをする日が来るとも想像していなかった、という火積の軽口に全員が笑い――そして溜息をついた。
「オレの見たところ、小日向先輩も……。まったく、似た者同士にも程があるでしょ。
 ああ、だからお似合いなのか八木沢先輩と小日向先輩」
 まったく手のかかる先輩だなぁ、とぼやきながらも新の気分や気力は少し上昇していた。この《誤解》を解くのは困難だ。しかし、分かち合える仲間がいることに、頼もしさを感じる。

「あー、ずっと考えごとしてたら疲れてきました。
 いったん休憩! 糖分を補充してきます!」
 校内の自動販売機に向かうべく、新は勢いよく立ち上がる。
「先輩たちの分も当ててきますね」
 数歩でドアの前まで移動しスライドさせると、きゃっという悲鳴が聞こえる。

「ごめんなさい……小日向先輩!?」
 そこにはコート姿のかなでがいた。話題にのぼったばかりのいるはずのない人物の登場に、部室内は恐慌状態におちいる。伊織は咄嗟に、身を投げ出して机の上の計算用紙一式を覆い隠した。
「どうして!? ヴァイオリン教室の日ですよね今日!?」
「先生のご都合で早く終わったの。それで、メッセージを読んで」
 彼女もまた、吹奏楽部であり《やぎたん》グループの一員なのである。狩野先輩のドジっ子! いくら慌てていたからといって、送信先をちゃんと確認して――と気付かなかった自分をひとまず棚上げする一同だった。
「狩野先輩は? お話はもう終わっちゃった?」
「た、大した話じゃなかったから気にしないで小日向さん。それでその、いつからそこに!?」
「えっと、たった今……?」
「今の話、聞いたか」
「新くんが《親分》って言ったのは、聞こえたけれど……?」
 矢継ぎ早に質問攻めにあっても、かなでは理由も聞かずに律儀に答えてくれる。何か盛り上がっていたみたいだねと言われて、どうやら肝心な部分は聞かれていなかったらしいと、部室の空気が弛緩する。
 それとは別で、新の脳内にちかっと点滅する光があった。

 聞こえた――積もり積もって――位置と角度――一線――誤解。

 それは連鎖的に次々と灯り、ひとつに繋がる。
「――そういう、ことか」
 ひらめきは一瞬だった。しかし、ここまでの議論があったからこそ、たどり着けた答えだった。
「謎はすべて解けた! ありがとう、小日向先輩!」
「よく分からないけれど、お役に立ててよかった」
 新は、事情がのみ込めていないままのかなでの両手を握り、ぶんぶんと上下に振る。
 と、すかさず火積から「お前……だからそういうところだぞ」とチョップを脇腹にお見舞いされたのであった。
「Ai!」

   ❄


【火曜日】

 一度言葉にすることで、情報や感情が整理され客観視が進むらしい。
 交際は個人的なこと。必ず公にしなければならない理由はない。黙っているという自由もある。
 随分と狭量な考えをしていたものだと、八木沢は反省しきりだった。
 そもそもの間違いは、間に人を挟み、直接本人達にたずねなかったことだ。
 ――狩野は、教室前でのやり取りを誰かに話しただろうか。
 彼のことだ、色々気を回すに違いない。確率は五分五分だと八木沢は見ていた。
 いっそ、言葉通り忘れていてくれば、知らないままでいられる・・・・・・・・・・・何事もなかったことにできる・・・・・・・・・・・・・のに。
 なぜ自分が本人達に問うことを避けたのか、八木沢は気付けていなかった。
 週末をはさみ、月曜がはじまる。それでも、何人から連絡ひとつ入らないことが、八木沢を安堵させる。

 ロングホームルームが時間割に組み込まれている日は、帰りのショートホームルームが省略される習いだった。教師が立ち去ると同時に一秒でも惜しいと教室を飛び出していくクラスメイトがいる中、八木沢はゆっくりと荷物をまとめる。帰宅して自宅学習にいそしむだけだから、急ぐ理由もない。日直をねぎらい教室を出た八木沢は、廊下の向こうからやってくる人物の姿を認めた。
 三年生の教室が並ぶ普通棟の三階に、一年生の姿があるのは珍しい。
「こんにちは、八木沢先輩」
 目の前で足を止め、新が屈託のない笑顔を浮かべる。
 八木沢は、とうとうその時がやってきたのだと思った。

「狩野に聞いてきたのかい?」
 話を切り出しやすいよう水を向けたが、新の返事は「いいえ?」だ。
 ――お、水嶋だ。また、八木沢に迷惑かけてるのか。
 顔が広い後輩は、通りすがりの他の三年生に声をかけられていく。八木沢と新が同じ吹奏楽部の一員だったのは周知の事実なので、いわゆる揶揄いのたぐいだ。「どーも!」「そんなことないですよ」新も軽く受け流している。
 やがて彼らも立ち去り、しんと冷たい廊下に、二人だけが残された。
「あ、ちょっと待ってもらっていいですか? 小日向先輩にメールしないと……っと」
 新の口から出た名前に、八木沢の鼓動がはねる。
 新は早打ちであっという間に文章を作成し、送信ボタンを押した。
 と、短く振動してメールの到着を告げたのは、八木沢の携帯電話だった。
 偶々タイミングがよく、という訳ではなかったらしい。
「しまった。間違えて八木沢先輩にも送ってしまった……」
「消そうか?」
 言いながらも、八木沢はその作業に移りつつあった。
「別にいいですよ。読まれて困る内容でもないし」
 ああ、これは新なりの報告なのかもしれない、と八木沢は思った。狩野から聞いたということを伏せるため、偶然漏洩した形をとるための芝居。だとしたら、わざとらしさは承知の上で乗るべきだろう。
 八木沢はメールを開封する。
 その文面は、たったの一文だった。

《窓の外を見てください!》

 八木沢は首を巡らせる。

   *

 折角だから少し練習してから帰るね、というかなでを見送った後――新は自分が出した結論を先輩達に告げた。
「――聞き間違い?」
「でも、八木沢先輩がよりにもよってそれ・・を間違えるかな……」
「やっぱ、厳しいですかね」
 慎重派の伊織に、「いや」と異議を唱えたのは火積だ。
「聞きたくないことだから、聞こえるってことは、あるだろ。実際より、余計大きく聞こえるってことも、な」
 さっぱりした表情ながら、含蓄のある言葉だった。
「……うん、そうだね、火積くん」

   *

 厚く重い雲に覆われた空は薄暗い。
 それでも、窓のフレームに飾られた景色がほのかに明るく見えるのは、白く反射するものがあるからだ。
 音もなく降り積もる、『天から送られた手紙』。

「“雪”です、先輩」

 新はそっと八木沢の横顔をうかがった。
 簡単な聞き間違えを、なぜそのまま受け取ってしまったのか。そして、なぜ受け入れがたいと思ってしまったのか。
 聡明な人だ。すべてを言わなくても、きっと気付く。

「吹奏楽部で、オレと小日向先輩だけなんです」
 八木沢は魅入られたように窓の外を見つめ続けている。だからこれは、聞いても聞かなくてもいいこと、余録の部分だと、ひとりごとのように新は続けた。
「雪が降るのを楽しみにしていたの。先輩たちにとっては、毎年見慣れた光景かもしれないけれど、オレは去年までブラジルだったし、小日向先輩にとっては――『ふるさとでも雪は積もるけど、だって仙台での初雪だよ?』ですって。
 まとまった雪が降ったら雪だるま作ろうって、前から約束してるんです」
「小日向さん……」
 窓を向いたままの八木沢がぽつりと呟く。新はその視線の先を辿り、窓にはりついた。
「え? あ、本当だ」
 ささやかな花壇と池のある中庭に、赤い傘が花開いている。傘の主は、空に向かって手をのべている。わざわざ外へ出て、雪と戯れる生徒はそうはいない。
 小日向先輩の登場は計算外だ、とは新の内心の弁だ。そこまで謀っていない。でも、いいタイミング!
「小日向先輩ー!」
 新は窓を開けると大きくその名を呼んだ。左右を見回したかなでは、傘を傾げ、新の居場所に気付く。
「新くん、メールありがとう! 今度こそ積もりそうだね、雪」
 百葉箱、池の手すり、植木の上。うっすらと積もる雪、舞う雪をかなでは嬉しげに目で追っている。
「大きな雪だるまが作れそう」
「小日向先輩ー、実はですねー」
「うん?」
 新はずっと考え込んでいる様子の八木沢を、かなでが見える位置に引っ張り出した。
「ジャーン!! なんとここに、八木沢先輩も一緒でーす!」
「八木沢先輩……!」
 八木沢とかなでの目が合う。
 一階と三階と。その距離でも、かなでが息をのむのが分かった。
 頬の赤さは、傘の色が写りこんでいるばかりでは、きっとない。
「こんにちは」
「こ、こんにちは。おひさしぶりです、八木沢先輩。お元気でしたか」
「はい。小日向さんは?」
「わたしは見ての通りです。雪が嬉しくって、はしゃいじゃって……」
「ふふ」
 降り積もる雪にすっかり背を向けている。あれだけ楽しみにしていた雪なのに、かなでの内からその存在は消えてしまったようだった。
 ぎこちなかった会話が盛り上がりつつある中、かなでは我にかえる。
「……先輩、寒くないですか? 風邪をひいたりしたら大変!
 そういえば顔色が……っ!?」
「いえ、あのこれは……」

 あとは若い二人――じゃなかった、手のかかる先輩お二人でどうぞ。にんまりと笑うと、新は手を振って、そっとその場を去ったのだった。

   * * *


【水曜日】

 一晩降り続けた雪は、街をすっかり白く覆っている。
 八木沢はポケットの中に、御守りとして薄い紙を忍ばせた。《油断しないように》《当日まで体調に気をつけて》。アドバイスコメントが書かれた模試の結果だ。
「お話したいことがあります」と、メールでかなでと会う約束を取り付けた。急な申し出にもかかわらず、かなでは快く受け入れてくれた――《本題》の時もそうしてくれるかどうかは、皆目見当もつかない。

 けじめとして受験の結果が出てから告げるべきだ。八木沢は理性ではそう思う。
 だが、八木沢は自身の気持ちに気付いてしまった。
 静かに育った思慕は、一度封を開いたら、あとはもう溢れるばかり。もう、知らなかった頃には戻れない。なかったことにはできない。

 伝えるにしては、最悪のタイミングだった。かなでが《受験生》という、八木沢のナイーブな立場に気を遣うことは確かだ。それは八木沢の本意ではない。かなでが躊躇い、そういうそぶり・・・・・・・を少しでも見せ、言葉での説得が通じないなら、最終手段として御守りを――模試の結果を、狩野にしたように取り出してみせるつもりだった。
 今更調子を崩すようなことはない、だから安心して僕をふってくださいと。


「好きです、小日向さん。あなたを、お慕いしています」
「わたしも」
 向き合った瞳に、みるみる涙が浮かぶ。流れるより先に、かなでは八木沢の手を握った。
「わたしも、八木沢先輩のことが好きです」

 御守りの出番はなさそうだった。


   * * *


 掲示板の前の人混みとキャンパスの喧騒をすいと避けて、通話ボタンを押す。
 ワンコールの途中、飛びつくような勢いで出た相手に八木沢は微笑んだ。離れていてもその様子が容易に想像できる。今日という日を、自分の事のように緊張して待ち望んでいたのだ。
「はい」と応えたかたい声をときほぐすように、ほころんだ唇の形のまま告げる。

「さくらが咲きました、小日向さん」

fin

私が生まれ育ったのは、雪が珍しい土地です(中学生の頃、積もる雪が珍しくて、全校生徒の授業を一時間潰して雪遊びをした想い出があるくらい!)。さて、雪とはどういうものだったかしら、と悩みながら書きました。今年こそはと思ったのですが、タイミングよく降ってはくれなかった……。
よって、作中の雪の描写は想像の産物、フィクションです。
あとは、ひたすら新くん頑張れ頑張れという気持ちで書きました!
作中の主な時間が、11月〜12月なのでその時期には……せめてセンター試験中に……立春まで……と自己締め切りをずるずる伸ばしてきたのですが、桜の頃の前に無事完成させることができてよかったです。

2020.02.14



「勝手に巻き込まれたんだし、小日向先輩も当事者の一人なんだから。知っておかないと、フェアじゃないよね!」
《聞き間違いによる誤解》の一件は、新からかなでへと伝えられた。まるくおさまるところにおさまった今なら、きっと笑い話になるはずだ、という判断だ。もちろん他の部員たちがどたばたした余計な部分は誤魔化してばっさりカットする。
 新の端折り方がよかったのか、かなでは「新くんとわたしが……?」と驚きながらもにこにこしながら聞いていたものだった。
 ところが、
「……聞かないでおけばよかったなって」
 ある日いきなり、かなではそう言いだした。
「あのね、わたし……雪広先輩とか、雪広さん、って呼ぼうって、何度かチャレンジしてるんだけれど。
 もしかして、《ゆ》が《す》に聞こえちゃうんじゃないかって。そう思うと、は、恥ずかしくって……呼べないままで、いるの」
 何のことはない、盛大に照れているのだ。
 一人赤面するかなでに、「ねえ、小日向先輩」新は真顔で言った。
 聞き間違いがあろうとなかろうと、そんなの、
「いまさらさらですよ!!」
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