「風早、ききたいことがあるの」
帰宅した千尋は、神妙な顔でそう問うて来た。
「シンデレラって、どういうお話……?」
どうやら、絵本やアニメで誰もが一度は通る道らしい。そういう系統の御伽噺を、千尋に履修させるのを怠ってきた俺だった。
「今日、クラスでね、舞台発表会の役を決めたの」
「千尋がシンデレラですか!」
千尋はまさか、と首を横に振る。
「どんなお話か知らないもの。それに先生が、シンデレラ役の人はドレスが二着必要だからお家の人が大変だって」
千尋のためのドレスならいくらでも夜なべして縫う覚悟はあるのに、何たること! 大勢の前、うつくしく着飾るその姿を記録と記憶にとどめることができたかもしれないのに。迂闊だった、と俺はギリリと奥歯を噛みしめる。
「でも、すごいんだよ! 那岐が多数決でね、王子さま」
振り返れば、もう一人の家族である少年が不機嫌そうに立っている。もちろん、彼のために俺の裁縫の腕を振るうこともやぶさかではない。喜色に満ちた俺とは対照的に、那岐は苦虫を噛み潰したような顔で吐き捨てる。
「その場で断ったに決まってるだろ」
「衣装が用意できそうにないからパス――って、聞いた瞬間みんながっかりしてたよ」
ああ、もったいない、と俺の心の声がそのまま漏れるが、那岐はあっさりと無視した。
「みんなって誰」
「那岐に投票した女の子たち。あと、先生も」
「…………」
「私だって、そうと決まったら衣装作るのを手伝ったのに」
「……面倒くさい」
那岐、と千尋が呼び止めたのにも関わらず、那岐は襖をぴしゃりと閉め、自分の部屋に籠ってしまう。
「――という訳で、那岐はナレーションなの」
千尋は小さく肩をすくめる。成程、衣装の必要のない役だ。
「では、千尋は……?」
学校の一行事。出番の多い少ないはあれど何かしらの役が振り分けられ、児童全員が舞台にあがるはずだ。そうだビデオ、カメラは既にあるから、ビデオカメラを買おう!
シンデレラといえば、他に何の役があっただろう? そもそもどういう粗筋だったか――どんな役でも千尋の輝きはそこなわれることはないけれど。
なけなしの記憶をたどる俺に、千尋ははにかんで告げる。
「私はね、クマ」
「え?」
「お相撲を取るクマの役」
……シンデレラって、そんな話だったかなー?
その後、当日まで秘密ね、と配られた脚本は早々にどこかに隠され、自宅練習は俺の不在の時ばかりを狙って行われた(らしい)。おかげで、俺は舞台発表会までもやもやとした気持ちを抱え続けることになるのだった。
※ ※ ※
衣はみすぼらしくとも、姫の気高さやうつくしさは少しも損なわれていませんでした。
ひとりになった途端、こらえきれなくなった姫は涙を流します。
そこへやってきたのは――
こちらへ来るときに服は変わってしまったけれど、靴は履きなれたそれのままでよかった、と花梨は思う。
この世界を、京を歩き回る日々が続いている。地理に不慣れな花梨のことを慮り、毎朝八葉の誰かが藤原の邸を訪れて案内を申し出てくれるのがありがたい。
八葉の背を追い、あるいは背を守られて歩く路はさまざまだ。
畦道、小高い丘の上、山のそのまた奥にある寺社、立派な橋に、轍の残る大路。洛中であっても、整備が追い付かず荒廃して朽ちているところもあれば、大切に手入れされた境内に出会うこともある。その場所に奉られている、《もの》や《こと》を信仰する人々によって保たれているのだ。
交わす言葉からだけでなく、見るもの聞くこと触れること、風が運んでくる匂いすべてから京に暮らす人――ときどき神――の営みを感じる。花梨にとって、怨霊を封印するのと同じくらいそれは意味のあることだった。知るたびに、守りたいと強く想う。
もっとも、そう思えるようになったのはやっと最近のことだ。
京に召ばれた当初の花梨は、《白龍の神子》として何をすればいいのか分からず、右往左往するばかりだった。毎日慣れないことづくめ。八葉がやさしい路を選び、花梨へと譲ってくれていることにも気付けずにいた。神子とその八葉という信頼ができあがる前から、ひとりのひと対ひとして、さりげない思いやりは続けられている。
やさしいひとたちだ――そう知った時が、もっと知りたいと願った「最初」。
一日の終わりに、お香を焚いて自らマッサージを施すのが花梨の日課だ。
几帳に隠れて靴下を脱ぐ。
ブーツのふちが触れるふくらはぎは、ぐるりと赤黒く変色している。足の裏にできたまめは幾度もつぶれて、固くなっている。気をつけていることもあって、今のところ爪は割れていない。なれた靴でこの有様だ。しかし、同行者も同じだけ、しかも悪路を選んで歩んでいる。甘えてはいられない。
身構えていても、傷だらけの足にふれるとやはり小さくうめき声をあげてしまう。一度試してみたお札は、効かなかった。でも、手をとめることはしない。
明日のために――知ったすべてのために、自分ができることを精一杯しよう、と花梨は決めている。
「おはよう。今日も一日、よろしくお願いします」
彼は京でも旧い、さる有力な貴族の出身だった。男子としてうまれた時点である程度の位は約束されている。余程のへまをしない限り、大納言となれるだろう。その一方で、最上位である太政大臣に昇り詰めることがかなわぬことも分かっていた。――才能ある者が抜擢され、要職に就くようになるのはこの時代を経てからだった。
日の本の治世は、院と帝との二派に分かれてはいたが、ひっそりと手回しは済んでいる。どちらに軍配が上がろうとも利があるように。動かず、騒がず、ただ成り行きを見守っているだけでよかった。怨霊が跋扈しようが、世も末だと民草が嘆こうが、手入れの行き届いた邸を構え、武士団や雑色に警護をさせる身にはまったくの他人事。彼の家が、そうやって永らえてきたように、今までを習うまでだ。
彼の家では、子々孫々へ伝えるものとして日記をつけていた。
宮中の細々としたしきたりや、入り組んだ貴族社会の血縁関係、仕事の作法に処世術。宴で耳にしたすぐれた歌、時には噂話も。逆に日記の噂を聞きつけ、他家からも知恵を借りに訪れるものがある。当然、相手は手ぶらでやってこない訳であるから。紙はたいへん貴重なものであったが、日記は一族の繁栄に一役買っており、どんな些細なことも日々綴ることを推奨されていたのだった。
その日記は大切に保管され、写しが作られ、時には選者にとって興味深い部分の抜粋版が作られ、注釈がつけられ――水に流され、炎に焼かれながらも……現代へと伝わった。
――その女子、髪は童のように短く、色のついた水干と革の沓という男の装束なり。
――陽の下に白い顔をさらして平気でいる。なんと慎みのない、嘆かわしい世の中になったことよ。
――花鳥模様の衣に二色の菊綴、結んだ組紐は長くたなびいている。
――袖を振るなんてなんてはしたない女子よ。皆が見ているではないか。
《と言いつつ、毎回彼女に会えてうれしそうなんだよなぁ》
《誰より彼女の描写が一番細かいですよね。袂や紐が風になびく様子とか。必要です?》
《必要に決まってるだろうよ! 奴の中ではな!》
《彼女は供を複数連れているようなので、実はやんごとない身分の方なのでは?》
《手を振って挨拶してくれる。いい子だね》
《どう見たってこれは……恋をしてしまっていますね》
《麿、気持ちを素直に認めちゃいなよ……》
後世、親しみと揶揄を込めて《麿》とあだ名され、ボーイッシュな美少女に萌える男の元祖として有名になるとは、彼本人も予想だにしていなかったことだろう。
今際の際の言葉を幾度となく拾いあげた。最期の様子を人伝に何遍も聞いた。
仲間が、源氏が平氏が貴人が、普通の暮らしを送る人々が、倒れて動かなくなる姿を望美は見てきた。
戦場で刀を構え、その命を奪うのが望美自身であったりもした。
――刀に斬られ、弓矢に射られ、炎に焼かれ――
たくさんの血が流れ、雪や砂地に吸われ、床板の上にとぷと溜まり、水に溶けて広がっていった。
一振りごとに取り落としそうになりただ必死で強く握った刀は、手のひらに水膨れを作り、固いまめになり、今では柄に馴染むよう手の節の形がすっかり変わってしまっている。望美が時空を遡り、戦ってきた歴史の静かな証だ。
何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も。
涙もまた、血でできているという。自身のこぼすほんの一滴でも、これ以上むやみに流れることを、望美はよしとしなかった。
髪が風になびく。夕日に照らされ、いまひととき輝く波と仲間たちが戯れる声が聞こえる。
だから、すべてが終わったそのとき、望美は胸いっぱいに潮の香りを吸い込み、ようやく思う存分声をあげて泣いた。泣き続けた。
前の席から順に送って配られるプリントを確認する。
夏休みの課題として、ずらりと提出必須のワーク(問題集)や、提出自由の工作・ポスター・習字・標語が書かれている中ほどに、今年もあった。
読書感想文――必須の枠だ。
参考として、課題図書が四冊挙げられている。その内訳は、あらすじから推測するに物語が二冊、科学的読み物が二冊、だろうか。はじめて知る本ばかりだ。
「那岐は読書感想文、どうする?」
昼食のそうめんを片付けた食卓には、お互いの夏休みの計画表が広げられている。教員である風早(保護者)の指導の賜物だ。終業式の日の葦原家ではおなじみの光景だった。
千尋が問いかけた相手は、面倒くさそうにワークのノルマをカレンダーに割りふっている。どうやら、七月中にすべての宿題を終わらせてしまう気らしい。
「まだそこまで考えてない」
「みたいだね。私は図書館に行って借りてこようかと思うんだ。ただ、毎年予約がいっぱいみたいで」
課題図書は人気が集中するらしく、司書が「夏休み中に順番が回ってこないかもしれません」と申し訳なさそうに対応しているところを、千尋は何度か目撃している。もちろん、読書感想文は課題図書以外を読んで書いてもよいのだが、クラスの大半が選定された四冊のうちから選ぶらしく、その輪から外れることが、千尋には躊躇われるのだった。
「買えばいいだろ。どこの本屋だって山積みで売ってる。どうしても手に入らないっていうわけじゃない。
……何、遠慮してんの」
千尋の両親は既に亡い。この古い家で、親戚の風早と那岐と三人で暮らしている。生活費については風早から「千尋は何の心配もしなくていいんですよ」「ご両親の遺産がありますから」とだけ説明されている。それでも、ある程度世の中がわかってくると、若い教師一人の給料が潤沢ではないことに気付かされる。
千尋の胸で、仲間外れになりたくない気持ちと、無駄遣いしたくない気持ちのふたつが渦巻く。小さくつまらない悩みだと自覚はしていても、止められない。
黙ったままの千尋に、那岐ははぁ、とため息をついた。
「……それで? 千尋が読みたいのは、どの本。
五……四……三……二……一」
いきなりはじまったカウントダウンは、どんどんその間隔が短くなる。千尋は慌てて、課題のプリントの上を指差した。その指が、那岐と重なる。
「――え」
「奇遇だな。僕も同じ。
二人が読むなら、実質半額だ」
「うん……! ありがとう那岐」
次の買い出しの日に、一緒に買いに行こうね――と千尋はようやく笑顔を見せ、早速計画表に書き込むのだった。
*
――那岐はやさしいね。
そっと付け加えられた言葉には答えなかった。
千尋に揃えた、わざと譲った、と思われたのだろう。違う。思うまま選んだだけだ。
自分と千尋とは自然と同じ選択をするのだろうという予感は、ずっと那岐の胸に残り続けた。